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暗殺された日本の総理大臣まとめ

今回は日本で暗殺された総理大臣をまとめていきたいと思います。

2022年(令和4)の時点で、日本の内閣総理大臣経験者は64人おり、そのうち6人が首相在任中または退任後に何らかの形で襲撃をうけて暗殺されている。

伊藤博文(初代、第5、第7、第10代)

明治期の政治家であり初代内閣総理大臣でもある伊藤博文は、1990年(明治42年)10月26日ハルビン駅で、大韓帝国民族運動家であった安重根によって射殺された。

この日、伊藤博文はロシア蔵相のウラジーミル・ココツッフと会談するためにハルビンを訪れていた。駅のホームには関係者だけではなく在留日本人の歓迎団などもいた。安重根は群衆にまぎれて伊藤博文に近づき10歩ほどの至近距離から拳銃を発砲した。安重根は、自伝によれば、伊藤博文の顔を知らなかったので「顔が黄ばん白髪の背の低い老人」に向けて4発を発砲した。

伊藤博文は胸と腹に銃弾を受けたが、救命処置のため列車内に運び込まれてからもしばらくは意識はあった。犯人は誰かと聞くこともできて、ロシア官憲からの報告で朝鮮人だと知らされると「そうか、馬鹿な奴だ」と一言、短く言ったとされる。伊藤は次第に衰弱して昏睡状態に陥り、約30分後に死亡した。享年69。11月4日に日比谷公園で国葬が営まれた。

安重根はただちに捕縛され、共犯者の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もまたロシア官憲に拘禁された。日本政府は彼らを関東都督府地方法院に移し、明治43年(1910年)2月14日重根に死刑禹徳淳懲役2年曹道先、劉東夏に懲役1年6か月の判決を下した。

原敬(第19代)

「平民宰相」とも呼ばれた原敬は、1921年(大正10年)11月4日に、東京駅国鉄職員であった中岡良一によって刺殺された。

原敬は立憲政友会近畿大会へ出席するため東京駅に向かった。多数の見送り人に囲まれながら歩いて乗車口の改札口へと向かっていたところで、周りを囲んでいた群衆のなかから中岡良一が現れて、短刀を原敬の右胸に突き刺した。原敬は自宅へ運び込まれて治療を施されたが、突き刺さった傷は右肺から心臓に達しており、ほほ即死状態であったという。

のちの中岡良一の供述によれば、原敬が政商や財閥中心の政治を行ったこと、野党の提出した普通選挙法案に反対したこと、また尼港事件が起きたことなどによって暗殺を考えるようになったという。

逮捕された中岡良一は、死刑の求刑に対して、東京地裁で無期懲役の判決を受けた。その後の東京控訴院・大審院でも判決は維持され確定した。なおこの裁判は異例な早さで進められ、また調書などもほとんど残されていないなど謎の多い裁判であり、その後の中岡の特別な処遇がなされ、3度もの減刑で1934年には早くも釈放された。さらに戦時中には、比較的安全な軍司令部付の兵となっていたこともあいまって、本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者もいる。中岡は第二次世界大戦後の1980年に77歳の生涯を閉じている

高橋是清(第20代)

1921年から翌22年(大正11年)まで首相を務め、その風貌から「だるま宰相」とも呼ばれた高橋是清は、大蔵大臣時代の1936年(昭和11年)2月26日に、自宅の二階で陸軍青年将校が起こしたクーデター(二・二六事件)の最中に射殺された

二・二六事件とは・・・?

1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて発生した、日本のクーデター未遂事件。

皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1.483名の下士官・兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ丘などの一帯を占領したが、最終的に青年将校達は下士官を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束した。この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。

高橋是清、斎藤実など首相経験者を含む重臣4名警察官5名が犠牲になりました。事件後に開かれた軍法会議では「非公開、弁護士なし、一審のみ」で、刑が確定しました。首謀者の青年将校ら19名(20~30代)を中心に死刑となり、刑はすぐに施行されました

当時の高橋是清はすでに首相を辞任して大蔵大臣であったが、陸軍省所管予算の削減を図っていたために軍の恨みを買っており暗殺の対象となったといわれる。2月26日に赤坂にあった私邸を襲撃され、警備もつけられていたが突破されて、拳銃で撃たれたうえに軍刀でとどめを刺され即死した

濱口雄幸(第27代)

その風貌から「ライオン宰相」の異名もとった濱口雄幸は、1930年(昭和5年)11月14日に、東京駅で右翼活動家の佐郷屋留雄に銃撃された一命は取り留めたものの療養生活を余儀なくされ、首相を辞任したのちの1931年(昭和6年)8月26日に亡くなった。

濱口雄幸は、岡山県で行われる陸軍の演習を視察する予定だった。11月14日、列車を待つ東京駅のホームで右翼団体である愛国者の社員であった佐郷屋留雄に至近距離から銃撃された。銃撃された直後も周囲に大丈夫だと声をかけるなど、意識ははっきりとしていた。東京帝国大学医学部付属病院に搬送されて一命を取り留めたが、その後は入退院を繰り返して首相も辞任し、1931年8月26日に亡くなった

濱口の死因に関しては、後日濱口が放線菌の保有者であり、その細菌が傷口に侵入して化膿したことによる症状の悪化であると判明したため、犯人である佐郷屋の裁判では、被告の罪状が殺人罪と殺人未遂罪のどちらが適用されるべきか大いに紛糾した審理の結果、狙撃と死亡の間に相当因果関係がないとして、殺人未遂罪が適用されたものの、1933年(昭和8年)の判決の内容は死刑であったが、1934年(昭和9年)に恩赦で無期懲役に減刑され、1940年(昭和15年)11月に仮出所している

犬養毅(第29代)

文部大臣や逓信大臣なども歴任した犬養毅は、1932年(昭和7年)5月15日首相官邸青年将校が起こしたクーデター(五・一五事件)の最中に狙撃された。即死は免れたものの、その日の夜遅くに亡くなった。

五・一五事件とは・・・?

1932年(昭和7年)5月15日に日本で起きた反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが内閣総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した。

5月15日、犬養毅は折から来日していたチャップリンとの宴会の予定があったが、変更になり、終日官邸にいた。官邸に侵入した将校たちは、客間で犬養毅を取り囲んで政治問答を重ねたが、突然の「問答無用、撃て、撃て」という大声の叫び声ののち発砲して、犬養毅は重傷を負った。

即死したと思って将校たちは立ち去ったが、犬養毅はまだ息があり、孫の犬養道子が聞き書きとして記していいるところでは「呼んで来い、今の若いもん、話して聞かせることがある」と女中に話したという。医師の治療を受けるも、様態は急変し、その日の23時26分になって死亡が確認された。 

斎藤実(第30代)

犬養毅の暗殺後に首相を務めた斎藤実は、1934年(昭和9年)に内閣総辞職をして首相を退任したのち内大臣となったが、1936年(昭和11年)2月26日に、自宅で青年将校が起こしたクーデター(二・二六事件)の最中に射殺された。

斎藤実は、皇道派の陸軍中堅、青年将校から天皇をたぶらかす「重臣ブロック」として目の敵にされていた。2月26日未明に青年将校が率いる150名の兵士が斎藤邸を襲撃し、自室にいた斎藤実は無抵抗のまま暗殺された。斎藤の妻である春子は、銃撃された際の夫の遺体に覆いかぶさり「私も撃ちなさい!」と叫んだという逸話もある。(春子はその後長寿を全うし、1971年に98歳で逝去した)

事件の数日前には、警視庁が斎藤実に「陸軍の一部に不穏な動きがあるので、私邸にかえられないようにするか、私邸の警備を大幅に強化したらいかがでしょう」と提案されていたといわれる。

まとめ

今回は、暗殺された日本の総理大臣をまとめてみましたが、いかがでしたでしょうか?

刺殺されたり、銃殺されたり、その時代の情勢でクーデターが起こったりと、今の日本と同じ国なのかと驚愕します。

最後までご覧いただきありがとうございました。