2019年5月1日に皇太子だった徳仁様は天皇に、雅子さまは皇后となりました。
お二人の馴れ初めについては意外と知らない方も多いかと思います。
今回は、天皇陛下と雅子さまがどうやって結ばれたのか、出会いからご成婚に至るまでの馴れ初めを詳しく紹介させていただきます!
天皇陛下について

今上天皇 徳仁(きんじょうてんのう なるひと)
- 生年月日:1960年2月23日
- 生まれ:東京都宮内庁病院
- 出身校:学習院幼稚園→学習院初等科→学習院中等科→学習院高等科→学習院大学文学部史学科→学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程修了
- 第126代天皇
皇后雅子様について

皇后雅子(こうごう まさこ)
- 旧名:小和田雅子(おわだ・まさこ)
- 生年月日:1963年12月9日
- 出身地:東京都世田谷区
- 出身校:モスクワ市立ジェツキサートNo.1127保育園→ニューヨーク市立第81パブリックスクール付属幼稚園(キンダガーデン)→市立第81パブリックスクール→新宿区立富久小学校→田園調布雙葉学園・田園調布雙葉小学校→田園調布雙葉中学校→田園調布雙葉高校→マサチューセッツ州立ベルモント・ハイスクール→ハーバード大学経済学部→東京大学法学部中退
これまでの人生でも海外生活が長い雅子さま。
1986年に10月に外務公務員採用I種試験(外交官試験)に合格し、外務省入省が決まった時には「女性初のキャリア官僚」「スーパールーキー」と大きな話題となったそうです。
外交官の経験を活かして、今後は新たな皇后像を作り上げてくれそうです。
天皇陛下と雅子さまの出会い
まずは、天皇陛下と雅子さまの出会いを紹介させていただきます。
お二人はどのようにして出会って、交際に至ったのかを見ていきましょう。
公式での出会いは東宮御所でのパーティー
公式に発表されている情報では、お二人の出会いは1986年10月とされています。
1986年10月18日に来日されたスペインの国王カルロス1世の長女、エレナ王女を迎えた東宮御所での歓迎パーティーに雅子さま一家が招かれました。

このとき皇太子さまは26歳、雅子さまは22歳。
表向きは「小和田条約局長令嬢として参加したにすぎない」とされていますが、本当は将来のお妃候補の顔見せとして招待されていたようです。
事前に雅子さまのことを聞いていた皇太子さまは、実際に会って好感をもったとされています。
その後も、お妃候補のためか何度も顔をある中で、お二人は着実に交流を深めていきました。
- 1986年11月…寛仁親王が名誉総裁を務める日英協会主催のパーティーで顔合わせ
- 1986年12月…東宮御所で催された内輪の茶会(年越し会)に小和田家が招かれる
- 1987年4月上旬…日英協会のパーティーで再会
- 1987年4月下旬…高円宮家の宮務官から電話で招待され赤坂御用地高円宮邸の茶会に出席(ほか数名のお妃候補も招かれる)
- 1987年10月24日…東宮御所で夜の茶会に招かれる
- 1987年12月9日…24歳の誕生日に陛下からの花束が東宮事務官を通じて小和田邸に届けられる
- 1991年9月…東京芸術劇場で開かれた中村紘子のチャリティーコンサートの打ち上げの席に、高円宮が雅子と母の優美子を招待する
- 1992年8月16日…陛下と柳谷謙介宅にて5年ぶりに再会
こうして見ると、陛下側が計画的に雅子さまを誘ってお妃としての資質を判断されていたのかなと思います。
長い時間をかけて、人柄や家柄をチェックされていたのでしょう。
本当の出会いはフランス旅行?
公式では、天皇陛下と雅子さまの出会いは1986年10月とされていますが、本当はそれより前に出会っていたと言われています。
実はお二人は、1984年に二度にわたる極秘のフランス旅行を敢行されていました。
1984年の9月と12月、天皇陛下と雅子さまは、ドイツ国境に近いフランス・アルザス領コルマールという都市を、お忍びで旅行に訪れていたのです。

お二人がその時、交際していたのか、その後自然消滅したのかは定かではありません。
ただ、確かにエレナ王女のパーティーよりも前に旅行へ言っていたという事実がありました。

なぜこの事実が公表されていないのかは不明です。
もしかしたら、宮内庁が雅子さまがお妃となることに乗り気ではなかったのかもしれません。
雅子さまはもともと、宮内庁が選ぶ「良家出身のお妃候補」ではありませんでした。
ですが、公式でお二人の出会いとされている1986年10月のパーティー直前、写真週刊誌「FOCUS」10/17号で『父娘2代の外交官誕生!』と、雅子さまの特集が組まれていました。
そして、パーティー当日の出席者名簿には、雅子さまの名前が手書きで急遽書き加えられていたと言います。
つまり…宮内庁以外のマスコミや外務省、小和田家が一丸となって雅子さまを売り込んでいたのかもしれませんね。
理想の女性に一目惚れだった
将来の天皇として、小さい頃から結婚相手に注目が集まっていた陛下。
14歳の頃からお妃候補の報道が上がるなど、そのパートナー選びは異常な盛り上がりを見せていました。
同級生も女性との交流の場をセッティングするなど、周囲の人間が将来の皇后探しに躍起になっていたんだとか。
ただ、実際女性との交流の場では、女性たちは尻込みして皇太子さまに近づくことはなかったそうです。

宮内庁は、お妃候補として旧皇族、旧華族から学習院関係者等の人脈を押さえていたそうですが、陛下本人は民間からの相手を望んでいたそうです。
天皇陛下は、大学時代は理想の女性像に「控え目だけれども、芯がある女性」と語っていたそうです。
記者会見で質問されたときには、こう語っていました。
ですが現実は、なかなか天皇陛下というお方に尻込みせずに堂々と話ができる女性とは出会えずにいたようです。
そんな中、1986年のエレナ王女のお茶会で陛下に会った雅子さまはこんな一言を発しました。
陛下に直接ではなく、母方の祖母におっしゃったと言われていますが…なかなかの大物です。
天皇陛下は、そんな雅子さまに一目惚れをされました。
超大物で周りから恐れられていた男子が、堂々と接してくる女子に一目惚れ…まさに漫画の世界ですよね(笑)
ただ、当時の雅子さまは外交官試験に合格したばかりで、これから仕事に励んでいこうと意気込んでいた頃です。
新聞のインタビューでは、
と話していました。
まさか、お妃候補となり、数十年後に皇后になるとは夢にも思わなかったでしょう。
天皇陛下と雅子さまの結婚までの馴れ初め
公式ではエレナ王女のパーティー、本当はもっと前に出会っていたお二人。
もともとの宮内庁のお妃候補リストには入っていなかったことから、雅子さまがお嫁入りすることには多くの反対の声があったそうです。
では、お二人はどうやって障害を乗り越えて結婚に至ったのでしょうか?
周囲には反対されていた
天皇陛下と雅子さまの結婚には多くの反対がありました。
数回の顔合わせで、雅子さまに惹かれていった天皇陛下。
しかしながら、宮内庁の人間や当時まだご存命だった昭和天皇は反対をされていたと言われています。

反対をされた理由としては、雅子さまのお家柄がネックだったようです。
陛下の結婚相手となる方については、宮内庁が家柄や異性関係を調査します。
その結果、雅子さまの母方の祖父・江頭豊さんが、水俣病の原因となったチッソ社の社長であることが判明しました。

「世紀の企業犯罪」と呼ばれるチッソ社のトップを家族に持っているため、宮内庁内でも結婚に反対する声が多く上がったようです。
宮内庁も、雅子さまとの縁組を断念するよう陛下を説得したと言われています。
マスコミの報道も加熱し、天皇陛下と雅子さまは一度結婚を断念したそうです。
雅子さまはイギリスへ留学
天皇陛下との結婚について、雅子さまの元には連日マスコミが押しかけました。
この頃雅子さまは外交官として仕事をされていましたが、報道が過熱して心身ともに疲れ切ってしまっていたそうです。
そんな中、マスコミから逃れるように雅子さまはイギリスへ旅立つこととなりました。
1988年に外務省の在外研修生としてイギリスのオックスフォード大学に留学することを決めたのです。

留学をきっかけに、天皇陛下との連絡も取らなくなったと言います。
しかし、しつこいマスコミは雅子さまをイギリスまで追いかけ取材をしました。
そこで雅子さまは、
と宣言。
マスコミも諦め、二人は完全に破局したと思われました。
諦めきれない天皇陛下のプロポーズ
1989年1月、昭和天皇がご崩御され時代は昭和から平成に変わりました。
皇太子となった陛下に、マスコミが再び殺到。
毎年のように陛下に「理想の女性に出会えましたか?」と質問をされ、
陛下は「理想の女性に会えたかもしれないし、会えなかったもしれない。」と答えていましたが、実はまだ雅子さまのことが心にあったと言います。
この頃、陛下は宮内庁長官には「やはり雅子さんでなくては」と伝えていたんだとか。
雅子さま以外の女性は考えられなかったということですね…!

1992年1月に陛下は東宮関係者に「小和田雅子さんではだめでしょうか。」と伝え、再度お妃候補として進める計画が始まりました。
そして二人で会えるようにセッティングをしてもらいました。
1992年10月3日、マスコミに嗅ぎつかれないように、ワンボックスカーに乗り込んだ陛下は毛布や段ボールで隠され(!)皇室が接待に使用する千葉の宮内庁新浜鴨場へ向かいました。
両親である当時の天皇皇后両陛下や宮内庁内部の人間も隠しての外出だったそうです。
雅子様とデートすることに成功した天皇陛下は、そこで雅子さまにプロポーズをされました。
覚悟を決めて無断外出をされたのですね…!
さらに天皇陛下は、雅子さまの外交官というキャリアもお考えになり、こんな言葉をかけたそうです。
一度は破談状態となったお二人でしたが、陛下の心は雅子さまに決まっていたようです。
ただ、この時雅子さまの心にはまだ迷いがあったため、即答ができませんでした。
天皇陛下の男前な一言
雅子さまは、陛下との縁談が破談になってから一時他の男性との結婚を考えた時期もあったそうです。
しかしながら、父親である小和田恒さんは、雅子さまを皇太子妃にすることを諦めずに声をかけ続けたとも言われています。
そして、千葉宮内庁新浜鴨場でのプロポーズ。

陛下のまっすぐな言葉やひたむきな姿勢や人柄に、雅子さまも再度心を惹かれていきました。
当時は外務省では女性の社会進出にも風当たりが強く「女性は課長以上に出世できない」とも言われていました。
自身のキャリアとプロポーズと、多くのことに頭を悩ませ、雅子さまは10日間も仕事を休んでしまいました。
その頃、陛下から雅子さまへこんな一言がかけられたのです。
記者会見でも有名になったお言葉ですね。
そして、12月9日の雅子さまの誕生日には午前0時に電話をし、お祝いの言葉を贈りました。
そんな陛下の熱意に雅子さまは心を動かされ、ついに結婚を承諾されました。
その時はこんなやり取りがなされたそうです。
お受けいたします限りは、殿下にお幸せになっていただけるように、そして、私自身もいい人生だったと振り返られるような人生にできるように努力したいと思います。
出会いから6年、困難を乗り越えてお二人は結ばれることとなりました。
結婚の儀が行われる
婚約会見が行われたのは1993年1月19日。

この時の雅子さまのファッションは、
- 「アトリエ 角田明美」が制作したレモンイエローのワンピース
- 「リュウスケカワムラ」(河村龍介)の靴
- 「ベル・モード」にオーダーしたピルボックス帽
- ワンピースと同色のバッグ
- 真珠のネックレス
- イヤリング
- 白い皮手袋
という出で立ちでした。
会見後、お二人は各宮家に挨拶に回り、当時の皇后さまから雅子さまへ皇太后さま(香淳皇后)から受け継がれたルビーの指輪が贈られました。

1993年2月9日に雅子さま外務省を退職し、3月12日から「お妃教育」がスタート。
お妃教育とは、婚約者に皇族として必要な知識などを講義するご進講(ごしんこう)のこと。
雅子さまが堪能な語学を省略しても、週に4日のペースで6週間、計50時間!
宮中祭祀、皇室制度や皇室典範・憲法、日本歴史、和歌、書道などのレッスンが行われました。
祭祀と制度関係は親王妃の2倍近い時間がかかりましたが、雅子さまは数十冊のノートを取り熱心に学習されました。
そして1993年6月9日、皇居で結婚の儀が行われました。

お二人は皇居から東宮仮御所までの約4.2キロをオープンカーでパレード。
沿道には市民約19万人が詰めかけました。
結婚の儀はNHKで生中継され、視聴率は30%超えとなりました。

まさに国民の一大イベントとして祝福されたお二人は、
「これからは2人して皇族としての様々な務めに励んでいきたいと考えます」との感想を発表されていました。
結婚後も雅子さまを守り続ける
めでたく結婚された天皇陛下と雅子さまでしたが、結婚後もマスコミの報道がおさまることはありませんでした。
次に話題になったのは、お二人の子供のこと。
次期天皇の子供に全国民の視線が注がれたのです。
1999年12月10日、朝日新聞が雅子さまの懐妊の兆候をスクープし、宮内庁は過熱報道の自粛を要請しました。
しかしながら、12月30日に流産の手術を受けたと発表。
宮内庁の古川清東宮大夫らは、ご懐妊が早期から大々的に報道されてしまったことで、雅子さまに心労を与えたとマスコミを批判しました。
陛下も翌年の誕生日の記者会見で、雅子さまを守る姿勢を示しました。
そんな二人にも、2001年12月1日に愛子さまが誕生。
プレッシャーがかかる中、結婚から8年余りでの第一子誕生となりました。

待望の第1子誕生後も、世継ぎである男児誕生を巡るプレッシャーは依然としてご夫妻にかかり続けました。
そんな重圧からか、雅子さまは次第に公務を休みがちに。
2003年12月3日に帯状疱疹を発症、2004年6月には適応障害の診断を受け、療養生活に入ることとなりました。
これもマスコミの報道やバッシングが原因と考えれます。
雅子さまが療養に入る1ヶ月前、2004年5月に天皇陛下は訪欧を前にした記者会見でこんな発言をされました。
それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です。
海外育ちで国際派、これまでの皇族にないものを持っていた雅子さまと、伝統と慣習に厳しい宮内庁との間でギスギスがあったことを匂わせていますね。
これまで皇族の方がこういった発言をすることがなかったため、会見での発言は「人格否定発言」と呼ばれ、大きな反響を呼びました。
お妃候補から結婚、そして後継問題…常にマスコミに追われ疲弊した雅子さまを守ろうとする姿勢が伺えます。
天皇陛下は、雅子さまにプロポーズをした時から一貫して雅子さまを守り続けているのです。

天皇陛下は雅子さまにベタ惚れだった!
天皇陛下と雅子さまの出会いから結婚までの馴れ初め、そして現在までの歩みを見てきました。
分かったことは、天皇陛下が雅子さまにベタ惚れだということ。
2018年6月9日に結婚してから25年が経ち銀婚式を迎えたお二人。
皇太子さまは銀婚式の際に「結婚十年の折の『努力賞』と『感謝賞』のダブル受賞に加えて、銀婚式にちなんで銀メダルも贈りたい」と話されていました。

雅子さまも「私が体調を崩しましてからも、皇太子殿下には、いつも優しく、細やかなお心遣いをいただきながら、お助けいただいてきていることに心から感謝申し上げたいと思います」と話され、
いつも陛下が支えてくださっていることを明かしています。
お二人の歩んできた歴史を辿ると、陛下が雅子さまのことを思い続けたこと、そして雅子さまがその真摯な思いに心を掴まれていること、これはずっと変わっていないのが分かりました。
天皇陛下夫婦の歩みまとめ
最後に、天皇陛下と雅子さまの歩みを年表にして紹介させていただきます。
1986年10月 | 東宮御所でのスペイン・エレナ王女のレセプションで出会い |
1992年10月 | 新浜鴨場(千葉県)で皇太子さまがプロポーズ |
1993年1月 | 皇室会議で婚約が内定 |
1993年6月 | 結婚の儀。東京都内をパレード |
1994年11月 | 結婚後初の海外訪問となる中東4カ国訪問 |
1995年2月 | 阪神大震災の被災地お見舞い |
1999年12月 | 雅子さまが妊娠、流産の手術 |
2001年12月 | 愛子さま誕生 |
2002年12月 | ニュージーランド・オーストラリア訪問。訪問前の記者会見で、雅子さまが「外国訪問が難しいという状況は、正直申しまして適応することに大きな努力がいった」と発言 |
2003年12月 | 雅子さまが帯状疱疹を発症し入院。以後、療養生活へ |
2004年5月 | 皇太子さまが人格否定発言 |
2004年7月 | 宮内庁が雅子さまの病名を「適応障害」と発表 |
2006年8月 | ご一家でオランダ静養 |
07年6月 | 皇太子さまが十二指腸ポリープの手術 |
10年1月 | 阪神大震災15年の追悼式典に出席 |
3月 | 愛子さまが通学に強い不安感を訴え学校を休まれていると宮内庁が発表。以後、雅子さまが通学に付き添い |
2011年4~8月 | 東日本大震災の被災地や都内の避難所訪問 |
13年4~5月 | オランダ訪問。雅子さまにとって11年ぶりの海外公式訪問 |
11月 | 東日本大震災で被災した岩手県を訪問。雅子さまの宿泊を伴う地方公務は3年9カ月ぶり |
14年10月 | オランダ国王が国賓として来日。歓迎行事は5年半ぶり、宮中晩さん会は11年ぶりに雅子さまが出席 |
15年7月 | トンガ訪問 |
11月 | 秋の園遊会に雅子さまも12年ぶりに出席 |
16年8月 | 天皇陛下がビデオメッセージで退位の意向を示唆される |
18年5月 | 皇后さまがご一家を紅葉山御養蚕所に案内。雅子さまが養蚕を引き継がれることに |
2019年5月 | 新しい天皇・皇后となる |